リンパマッサージ 大阪のファン
30年たったいま、NSは無限の財産を手に入れたが専用スペースの広さは変わらない。
H・P社の建物のなかも、同じようにパーティションで仕切られている。
1970年代の終わり、従業員が5万人いた時点でも個室はわずか3部屋しかなかった。
一つはB・H、もう一つがデイブ・Pの部屋で、3番目はP・イーリーという男のものだった。
同僚たちは彼が電話に向かって怒鳴る声のあまりのうるささに悩まされ、会社が彼の周囲に天井まで届く仕切り板を立てたのだ。
それはまるで、広い部屋の真ん中に立ったエレベーターシャフトのように見えた。
シリコンバレーには、B・NSは単なる金持ちの凡人だったというエピソードがいくつも残っている。
あるとき、NSは銀行の長い列に並んでいた。
順番が回ってきた彼は出納係に自分の口座から130万ドル引き出して銀行小切手に変えてほしいと指示し、今日の午後、ビジネスジェット機、セスナ・サイテーションを買いに行くんだと上機嫌で打ち明けたとか。
こんな話もある。
NSが離婚し、再婚したあとのことだ。
彼はあの気取ったロス・アルトス・カントリークラブに入会を申し込んだ。
ところがクラブとしてはNSの新しい夫人を認められないという理由で、あっさり入会を断わられてしまったのだ。
そこで、NSはまた小切手を書いた。
今度はロス・アルトス・クラブのクラブハウスが見える自分の土地に、まったく同じ施設を作ったのである。
NSは言った。
「もう、あんなクラブなんかに用はないさ」指導者としてのNSは、高校の理科教師と運動部のキャプテンを足して二で割ったような存在だった。
若いエンジニアたちは自分の意見を述べるよう奨励され、研究に必要なものは何でも買える権限を与えられていたのである。
NSは偉大な発見は突拍子もないアイデアから生まれることを知っていたから、アイデアが突飛すぎて検討する価値がないということなどあり得なかったのだ。
また、若いエンジニアたちが会社を辞めて、ベンチャー企業を始める日がいずれはやって来る。
彼らのアイデアを持てあまして拒否しても、その日を早めることになるだけである。
NSはそれも充分承知していたのだった。
NSの技術面の管理方針はあまりに啓蒙的すぎて、大企業と呼ばれるようなところでは受け入れられないだろう。
だがフェアチャイルドでも、NSが次に作った会社インテルでもうまくいった。
実際、イストックオプションンテルが生まれた理由もそこにあった。
管理職だけではなく全従業員に給与の一部として自社株購買権を与えようというNSの提案が、東部の株主たちに受け入れられなかったのだ。
彼は会社を総合的に成功させるために、掃除夫から社長にいたるまで全員に懸命に働いてもらいたかった。
そして周囲に富を分配することが、これからの企業のあり方だと思っていたのである。
この経営方針は、シリコンバレーにあるコンピュータ、ソフトウェア、半導体関係の会社ではいまだに標準と見なされている。
どの会社にもドアはほとんどないし、秘書も自分の会社の株式を持っているのだ。
こうしたやり方がうまく活かされている会社もあれば、あまりうまく活かされていない会社もある。
だが最高経営責任者(CEO)なら誰でも、依然として自分の会社の経営方法はB・NSと同じだと思いたがっているのである。
半導体産業は、大型コンピュータの製造業とは違う。
新しい半導体部品を開発するには多くの費用がかかるが、いったん設計が終わってしまえば製造にはそれほどのコストはかからない。
これが、半導体を量産型の産業にした。
量産できる製品ほど儲かるのだ。
利益率が大きくても、少量しか生産しない製品は儲からない。
量がすべてなのである。
大量販売を可能にするために、NSはフェアチャイルドが販売している部品の価格をすべて一ドルに値下げした。
製品によっては、製造コストとほとんど変わらないものまであった。
パートナーのなかにはNSが狂ったのではないかと疑った人間もいたが、需要を満たすために生産量を増やすにつれて販売量は急速に増え、すぐに利益が出たのである。
そして、同時に商品コストも下がり続けていった。
電子部品価格の絶え間ない下落の発端は、もとをただせばフェアチャイルドにあったのだ。
その後の30年間で、トランジスタ一個あたりの価格は一万分の一に下がっている。
一万倍の広さの工場を建てなくてもすむように、NSは価格はほぼそのままに据え置いたままで顧客がもっと多くを得られる方法を考え出した。
半導体の価格が下がり続ける一方で、エレクトロニクス部品を組み立てる労賃は当然ながら上がり続けている。
こうした状況にも勝てる方法を、NSは考えコンポーネントなのだ。
もし数個の部品を一片のシリコンに組み込めれば、組み込み作業に要する労働力をかなり削減できる。
これは1959年に実現し、NSはこのアイデアを集積回路(IC)と名づけたのだった。
NSは言った。
コンポーネント「私は怠け者だから。
複数の部品を一個のパーツとして製造できるのに、部品を一つ一つ手作業でハンダ付けするなんて意味がないよ」テキサス・インスツルメンツ社(TI)のJ・キルビーは、すでに一枚のゲルマニウムの板に、ゲルマニウムの抵抗やコンデンサをはじめとする複数の独立した部品を組み込むことに成功していた。
しかし、キルビーが作った部品はチップの上で細い金線で接続されていた。
しかも、金線は手作業で接続しなければならなかったのだ。
TIの集積回路は、量産ができなかったのである。
NSが開発した集積回路のチップ表面は、絶縁性の珪素酸化物の薄膜で覆われていた。
これは「プレナー処理」と呼ばれ、以前フェアチャイルドが開発したものだ。
NSはここに新しい工夫を加えた。
プレナー処理をしたあとで酸化膜の表面に写真処理で細い金属の線を印刷し、チップ上の部品を接続したのである。
J・キルピーの金線と同じように、この金属の線は電流を通す役割を持っている。
7x−[第3章]コンピュータバレーと呼ばない理由だが手で一本一本つなぐのではなく、一回の処理で印刷できるのだ。
この新しい写真製版技術を使って、NSと彼の部下たちは初めのうちニ、3個の部品を一つのチップに組み込んでいた。
やがてそれは10個になり、100個になり、そして数千個に増えていったのである。
いまではかってトランジスタ一個が占めていた面積に、100万個以上の部品を組み込めるようになった。
各部品は小さすぎて、肉眼で見ることは不可能だ。
集積回路の開発がさらに複雑な回路へと向かう状況のなかで、NSとともにインテルを設立したG・ムーアは「ムーアの法則」を考え出した。
この法則によれば、同じサイズのシリコン片に組み込めるトランジスタの数は18カ月ごとに2倍になっていくというのだ。
ムーァの法則は現在もあてはまる。
1968年当時、インテルのメモリチップは1024ビットのデータを保持できた。
これに対して、今日の最も平均的なメモリチップはその1000倍、10ニ万4000ビットのデータを記憶できる。
それなのに、値段はほとんど変わらない。
集積回路は別の方向、高価格化の方向へも進んでいった。
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